日本語への慣れを捨てろ──『日本語の作文技術』

日本語への慣れを捨てろ──『日本語の作文技術』 書評・読書感想・本の話
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以前から気になっていた『日本語の作文技術』を読んだ。本書は1982年に刊行された本ながら2015年に再編集された新版が発行されるなど、文章に悩む人々に長きにわたって愛読されてきた名著である。

目的はただひとつ、読む側にとってわかりやすい文章をかくこと、これだけである

上記は本書の中の一節であるが、文章術の本としては「わかりやすさ」を第一にしているのは特に珍しいことではない。ただこの本に限ってはそれを追求する本気度合いが全く違う。例えば句読点の打ち方や修飾語の使い方など、文章において明確に定められてはいないものの、迷うことが多い部分に明確な基準を示してくれている。そう聞くと文法の教科書のような印象を受けるかもしれないが、かといって堅苦しい内容ではないので気張らず読むことができる。

著者は「日本語の作文にも技術か必要だ」と主張する。例えば英語を話せるようになったからといって、それに伴って英語の文章も上手に書けるようになるわけではない。日本語に置き換えても同様で、我々は日本語を達者に話すことができるけれど、それとは別に「日本語で作文を書く技術」は意識的に勉強しないと養われることはないということだ。

私たちは日本人だから日本語の作文も当然できると考えやすく、とくに勉強する必要がないと思いがちである。

その読みやすさとは裏腹に本書の内容は文章術の真に迫っていると言える。そのなかで個人的に勉強になった部分を取り上げていきたい。

「話すように書く」という誤った認識

文章術では「話すように書く」ことこそが正義として語られることは多い。まるで会話をするかのように文章を書くことができれば相手にも内容が伝わりやすく、親しみも生まれるということがありがちな理由だ。しかし本書では第一章の序盤で「話すように書く」というのは大きな誤解だと早々に言い切っている。

文章は決して「話すように書く」わけにはいかないのだ。

話す際には必ず相手がいて、その相手の表情や反応を見ながら補助的に身振り手振りや抑揚を付けてわかりやすさを出すことができる。相手側もそういった言葉以外の部分を見ることで、より正確に相手の言いたいことを理解することができる。つまり会話というものは技術などを伴わなくても、基本的には「わかりにくい」という状態に陥ることはないということだ。

一方で文章はそうはいかない。会話と同じ感覚でダラダラとした文章を書くとすぐに「わかりにくい」と言われてしまう。そうならないためには、冒頭でも述べたようにやはり専用の技術が必要になるわけである。文法や適切な語彙、表現技法、句読点の付け方などを駆使することで、我々はようやくわかりやすい文章を書けるようになる。

会話では伝える上で五感に訴えられる部分が多いけれど、文章はほとんどの場合は視覚を通すことのみで伝えなければならない。考えるほどに「話すように書く」というのは無茶なことに思えてこないだろうか。「話す」と「書く」ということはあくまで別のものと割り切り、それぞれに適した技術を習得していくべきなのだろう。

「長い文章=わかりにくい」ではない

また頻繁に目にする文章指南として「短く書く」というものがある。冒頭から句点までの距離が長い文章は読者を混乱に陥れる恐れがある。そんな事態を招かないためにも、基本的には短い文章が連続して構成される文章のほうが読み手にとっては優しい。

しかし本書はここでも少し違う見解を示している。というのは、文章は必ずしも「短かければわかりやすくなる」ということでもないのだという。

文は長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短は本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自身のない人は短いほうが無難だというだけのことであろう。

つまりは「短い文を書きましょう」というのは一種の妥協案であって、相応の技術があれば文章が長かろうがわかりやすい文章は問題なく書けるということだ。そして「その技術はどのように学べばいいのか?」という疑問を解決するのがまさに本書の役割なのだと言える。

例えば句読点の打ち方や修飾語と被修飾語の関係性などは文章を書いていれば嫌でも意識せざるを得ない部分だが、一方で深く考えずとも一応の体裁は保てるので曖昧にしている人がほとんどではないだろうか。本書ではそれらを徹底的に掘り下げつつも、最終的には簡潔な法則にまとめあげているため非常に理解しやすい。興味を持った人は目次だけでも読んでどういった内容が書かれているか目を通してみてほしい。

紋切り型の表現に逃げない

「紋切り型」という言葉を初めて知ったのだが、それは著者の言葉を借りれば「表現が古臭く、手あかで汚れている言葉」ということらしい。

紋切り型とは、だれかが使い出し、それがひろまった、公約数的な、便利な用語、ただし、表現が古くさく、手あかで汚れている言葉だ。

具体例として「──とホクホク顔」「──とエビス顔」「ガックリと肩を落とした」などが紹介されている。確かに上記の表現はその言葉を用いた書き手のドヤ顔が透けて見えるようで、どこか小賢しい印象を受ける。はっきり言えば読んでいてイラッとする。

こういった表現を使う何よりの危険性は安易な表現に逃げることで考えることをやめてしまうことにある。表現というのは本来は自分の感じたものをありのままに描写することだ。拙くてもいいから自分の言葉でしっかりと書くことが大切だ。そういった自由さがあるからこその「表現」であり魅力的な部分だと思うのだが、紋切り型はそれを決まった形に固定してしまう。

しかし、紋切り型を使った文章は、マンネリズムの見本みたいになる。自分の実感によらず、あり合わせの、レディーメードの表現を借りるのだから、できた文章が新鮮な魅力をもつわけがなかろう。

偉そうに言ってはしまったが、自分も無意識でそういった表現に逃げてしまうことは多いように思う。完全に独自の表現を使うということも無理があるが、なるべくなら決まり文句に頼らずに物事を自分の言葉で感じ取り表出していく努力をしていきたい。

文章執筆のお供にしたい一冊

句読点の打ち方や助詞の使い方などの教科書的な内容があるかと思えば、紋切り型や文章のリズム、文体など感覚的な部分にまで広く言及しているのが本書の大きな特徴であると感じる。隙がない文章読本と言えるかもしれない。

ロングセラーとなっているのも内容に普遍的な価値があるからだろう。文章というものを細部から点検しているため、一度読めばこの本の全てを理解できるというものではないと思う。文章を書いていて疑問を抱いた時に開くと答えを示してくれる参考書のような使い方が合っているかもしれない。末長く側に置いておきたい一冊だ。

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