『女人禁制』──「差別」か「伝統」か

『女人禁制』──「差別」か「伝統」か 書評・読書感想・本の話
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「女人禁制」と聞くと、多くの人は大相撲の土俵を思い浮かべるのではないだろうか。2018年4月4日に開催された大相撲舞鶴場所で、挨拶中に倒れた市長の救命措置をしている女性看護師に対し、「女性は土俵から降りてください」という場内放送が流れたことは大きな議論を巻き起こした。

女性は土俵から降りてください - Wikipedia

それから4年が経過するが、ジェンダーレスを叫ぶ声は日に日に大きくなっていることを実感する。そんな中で「女人禁制」について知ることは社会における男女の差異を把握する上で役に立つのではないか。本書を手に取ったのはそんな理由である。

女人禁制の成り立ち

まず女人禁制とは何も相撲だけに適用される言葉ではない。もちろん時代や地域によって違いはあるが、本書ではこの他にも漁業・狩猟・酒造り・トンネル工事・登山における女性忌避の風習について触れられている。この中で本書では女人禁制が「恒常的規則」として展開されてきた山岳空間が主として取り上げられている。

興味深いのは奈良時代の僧寺に女人禁制があったのと同様に、尼寺にも男子禁制が存在したということだ。つまりこの時代においては僧と尼という男女双方に対等の禁制が課せられていたこととなる。

それが時代とともに女人禁制のみを残すことになった理由は多岐にわたるが、端的に言えば女性差別的な考えが広まったことが大きいようだ。それを担ったもののひとつが「五障」と呼ばれる女性観である。女性の身に五障ありという考えは『法華経』にて説かれており、それは家父長制が確立されつつあった男性主導の社会には都合の良いものだったのだろう。また儒教における「三従」の女性観が影響を与えた側面もあるようだ。

それに加え室町時代の『血盆経』が与えた影響も大きい。これは血の穢れによって地獄に落ちた女性を救済する内容の経典だが、これがかえって女性の月経や出産における血に対する不浄観を強調する役割を果たしてしまったという。この『血盆経』が偽経だったという事実にもやるせないものがある。

山に存在する女人結界は、当初は多くの禁忌の中の一部であったと考えられているらしい。それが強調された理由としては、やはりそこに男性主導の働きかけがあったからだという。

その設定は男性側の働きかけにあり、禁忌の生成で山の非日常性や聖性を高め、男性中心の儀礼空間での神仏との交流を密度の濃いものにしようと試みた人々が、女人禁制を推進する運動の主役であったと考えられる。

女人禁制=女性差別なのか

女人禁制の成り立ちを見ると女性にとっては理不尽極まりないものであり、この制度に疑問を抱くのは当然と言えるだろう。では全面的に禁制を無くすべきなのだろうかと言うと、話はそう単純ではない。

本書の中に現代に至るまで女人禁制を続けている大峰山と、その解禁を巡る人々のエピソードが掲載されている。女人禁制を伝統として残すべきという維持派と、現代に即さないものとして無くすべきという開放派の生きたやり取りが見られて読み応えがある。

「アメリカ人女性の登山」の章では大峰山の女性への開放を求める男女約30名が強行登山を実施しようとするのに対し、地元民が必死の説得にあたって思いとどまらせようとする様子が描かれている。「日本女性の地位が高められ幸福になるのでしたら」となおも強行の姿勢を見せるアメリカ人女性に対する大峰山側の必死の説得は色々と考えさせられる内容だ。引用してみたい。

(地の文は省略)「大峯山の女人禁制というのは、アメリカにおけるキリスト教の修道院と同じようなものです。アメリカにも女子禁制の場所があるではありませんか」

「女性を差別したり、女性をさげすんだり、そういう意味で女人禁制にしているのではありません。女性のいないところで男性だけが修行をする、つまり修道院のようなものと考えてもらったらいいです」

「この山には200万人近い信者さんがおります。その信者さんは、女性がこの山に登ることによって、自分たちの修行の場所を失ったということで非常に怒ります。その怒りを今日登ってきた女性の人に向けてくるでしょう。そして、それのみか、そのために、宗教的な暴動が起こります」

「暴動的なことが起こって、それが日本人の不幸につながります。みなさんが大峯山に登ることによって、日本の女性の方は幸福にはなりません」

以上が大峰山側の主張である。おそらくこの発言に嘘偽りは無いだろう。地元の人々が信仰を建前として女性差別を許容、もしくは推進しようとしているわけではないことが理解できるはずだ。女人禁制は成り立ちにこそ女性に対する差別的な偏見があったかもしれないが、それはあくまでもきっかけであり、その制度を維持している現代の人にもそういった思想が根付いていることの根拠にはならない。

これは我々がジェンダー論を始めとした何らかの差別問題に触れる際にも留意するべきことだろう。表面だけを見てそれを「差別だ」と決めつけるのではなく、本書でも繰り返し述べられているように「民族的基盤」を考慮し、「当事者の立場の尊重」をした上で意見をするような冷静さが求められると自らも思う。

尊重無き批判からは何も生まれない

大峰山を巡る出来事を語る上で、2005年に「『大峰山』に登ろう実行委員会」のメンバーだった女性3人が強行登山を実施した件は避けては通れない。当初は地元側と話し合いの場が持たれたものの、それが決裂した直後に強行登山に及んだとのことだ。下記のブログにてその当時の記事がまとめられてある。

女人禁制の大峰山で女性ら3人が登山強行 | TransNews Annex
女人禁制の大峰山で女性ら3人が登山強行  2005年11月04日 - 朝日  女人禁制が1300年間続く修験道の聖地、奈良県天川村の大峰山への登山...

当然ながらこれを機に維持派と開放派の溝はより一層深まり、その結果として2022年に至る現代においても女人禁制は堅持されている。

ここから学ぶべきことは、強行姿勢では何も変わらないということだ。上記の出来事も開放派に相手の立場を慮る気持ちがあれば結果は違っていたかもしれない。本当に女人禁制の開放が社会のためになると考えているなら、取るべき手段は他にいくらでもあったはずだ。強行登山は自分の気に食わないものに抗いたい、わがままを押し通したいという心理が透けた身勝手なパフォーマンスにしか見えない。

大峰山は過去に女人禁制の縮小にあたっていることにも注目すべきだろう。昭和45年に観光や地域振興の必要性にあたり、そのエリアを一部縮小している。「近畿日本鉄道の要請で」とのことだが、間違いないのはこれは双方共に納得したからこそ成し得たことであり、そこには相手の心情を踏みにじるような行いは絶対に無いということだ。

このように正しい方法で訴えかければ伝統も変化する余地はいくらでもある。本書ではそれは「『伝統』の発見」と表現されている。伝統という内輪の概念が、外部からの目線に晒されることによって現代に即したものに整形され、結果的にそれは伝統のより長い維持へと繋がっていく。

女人禁制は確かに時代に沿っていない概念かもしれない。しかし、だからといってそれを表面的な理解だけで無理やり変えていこうしても、それは互いの溝を深めるだけだ。ネット上でジェンダーに対する問題提起を見ていると明らかに行き過ぎた言動をしている人をよく見かける。当事者にとっては冷静でいられないテーマだというのも理解できるが、感情に任せて強い言動に走ってもそれは期待する結果を遠ざけることにしかならないだろうし、むしろ敵を作ることにすらなってしまうかもしれない。

まず「当事者の立場の尊重」をし、その上で正しく働きかける。それが双方にとって納得のいく社会を構築する上での大前提なのではないだろうか。

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