「天穂のサクナヒメ」100時間プレイした感想

ゲーム

半年ほどかけて「天穂のサクナヒメ」をクリアした。半分がストーリーラインのクリアで、もう半分がやり込み要素や実績解除などの個人的に達成したい部分の攻略である。

ひさしぶりに深く遊んだゲームであるので、システムやストーリーなどの要素に分けてこのゲームの感想を残しておきたい。

奥深く、そして面白い稲作

このゲームはなんといっても「稲作」に尽きる。発売してまもなくその本格的な稲作が話題になったが、それが単に奇をてらったものではなく、純粋に面白いシステムとなっていることは忘れてはならない。

最初は耳慣れない言葉も多いし、米の収穫量も少ないため不便さや物足りなさを感じる。しかしゲーム内には「農書」という稲作マニュアルが存在するため自然と知識が深まっていくし、年々増えていく収穫量が楽しくなってくる。そして十分な量の米を確保できるようになってからも、米には「質」という概念が存在するため、品質の向上に今度は躍起になっていく。

このゲームにおいて稲作はレベリングに相当するシステムであるし、避けられぬ要素である。ただ自分としては強制的にやらされているような感覚はなく、むしろ米と向き合う時間が最も楽しかった。クリアした現在に至るまで米作りを完璧にできたという一年はなく、収穫のたびに来年の改善案が頭に浮かぶ。そんな奥深いシステムとなっているのである。

王道ストーリーの中で光るキャラクターたち

ざっくり言えば「神」と「人間」が出会い、「鬼」に立ち向かっていくというお話。傲慢だったサクナヒメが人間たちと共に暮らし、そんな生活をコミカルに描きつつも精神的に成長していく姿を描いている。和風テイストが特徴的なゲームではあるが、ストーリーは基本的に王道ものだと言えるだろう。

個人的にはサクナヒメとタマ爺の絆が印象に残っている。サクナヒメの成長を描いた物語ではあるが、その一方でサクナヒメはタマ爺と話すときだけは幼い頃からの「サクナ」と「爺や」の関係性へと戻る。それだけにタマ爺を失うかもしれないと知った時の姫の動揺や、その不安から解放されたときの安堵の涙は心を震わせるものがあった。

また人間たち──田右衛門、ミルテ、きんた、ゆい、かいまるの5人──は最終的に麓の世へ帰るのか、このまま頂の世に残るのか、という選択を迫られていく。なぜ5人は最終的にその道を選んだのか、それを決定づける出来事はなんだったのか、という視点からもう一度ストーリーを追っていくと、また違った楽しみ方ができるのかもしれない。

やり込み要素のバランス

自分が半年間もこのゲームをやることになってしまったのは、想像を遥かに超えたやり込み要素が存在していたことにある。実績を追うだけなら比較的簡単ではあったものの、その先にあるアイテム等のコンプリートを含めるとかなりの量となった。最終的にかなり妥協したものの、もう十分すぎるというほど遊んだという実感は得られている。

ただ「やり込み要素がありすぎる」というのも考えものである。当初はこのゲームのあらゆる要素をしゃぶり尽くすぐらいの意気込みでいたが、どうしても運に依存する部分が大きく、また運要素を突破しても結局は膨大な時間がかかるということで、最終的には自分なりの「ここまではやりたい」というラインを定めて完了とした。その点でいえばドラクエ11などは大変ではあったものの、「やり込み要素の量」と「やり込みやすさ」のバランスもちょうど良かったように思う。

世の中には「収穫年数1000年」という途方もないやり込みをした猛者もいる模様。プレイ時間は600時間以上かかるらしい(自分は収穫年数40年でプレイ時間は100時間程度)。この記事にドン引きしなければ自分は今もサクナヒメを未練がましくプレイしていただろうから、諦めさせてくれたことに感謝したい。

天穂のサクナヒメ プレイ日記 - あまぎの小話

このゲームに惹かれ、これだけの長きを費やせたのは、「米」という日本人の根幹とも言える部分を突いていることが大きい。ロープアクションや必殺技などのアクションRPG要素や、魅力的なキャラクターなど、このゲームを評価できるところはいくらでもある。ただ最終的にこのゲームを「天穂のサクナヒメ」たらしめているのは、やはりどこまでいっても「稲作」だと思うのである。キャッチコピーの「米は力だ!」はこのゲームをよく表現した言葉だと思う。アニメも無事に終わったことだし、次は続編の展開を期待したい。

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