耽美小説の極致──『春琴抄』

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陰翳礼讃』の味わい深さに触れてから、谷崎潤一郎の著作に興味を持ちつつある。そこで代表作である『春琴抄』も手にとってみた。

『陰翳礼讃』と同様に谷崎潤一郎が日本の古典美に目覚めた時期の小説であり、その作品群のなかでも傑作との声が多い。文体が特徴的であり、作品ごとに実験的な試みをする谷崎潤一郎の本領発揮といえる作品だ。

恋や愛を超越した関係性

盲目の三味線弾き・春琴と、その付き人兼弟子である佐助の関係が中心となって話が展開されていく。春琴は甘やかされて育ったことに加えて九歳で盲人となったこともあり奔放かつ気性の荒い性格をしている。佐助はそんな春琴に従順に仕え、それを深い喜びとしている。

盲人の世話は簡単なものから下の世話までひと通りのことを必要とするので並大抵ではない。また後々になって春琴は佐助の三味線の師匠となるのだが、その指導も凄惨を極める。「罵りながら撥を以て頭を殴り弟子がしくしく泣き出すことも珍しくなかった」と書かれているようにスパルタどころの話ではない。しかし佐助としてもその涙は恐ろしさや情けなさもあるが、同時に春琴が指導に熱心になってくれている感激によるものでもあり、このあたりは谷崎潤一郎が得意とするマゾヒズムに富んだ筆致を存分に感じることができる。

出典:https://www.filmlinc.org/films/shunkinsho-okoto-to-sasuke/

春琴のそのような性格もあり、あるとき弟子の利太郎からの恨みを買い、顔に熱湯を浴びせかけられてしまう。その美貌を誇っていた春琴の落胆は並々ならぬものだったが、佐助もまた盲人である春琴の表情に浮かぶ神がかり的な雰囲気を愛していたため同様の心境だっただろう。「他の人間ならともかく、お前にだけはこの顔を見られたくない」と訴える春琴に対し、佐助が取った行動は自身も盲人となることだった。そうすれば春琴の表情を見ずに仕えることができるし、また自身も盲人となることで春琴と同じ暗闇の世界に入ることができる。

その後に佐助が自らも盲になったことを春琴に告げる場面は感動的だ。永遠のような沈黙が流れ、春琴が初めてありのままの心情を語り、そして二人は抱き合ってむせび泣く。谷崎潤一郎の文章力に加え、『春琴抄』全体の特徴である極端に句読点の少ない文体の流麗さもあり、この場面には強烈な美を感じさせる。この瞬間、ふたりは夫婦や恋人といった関係を超越したのである。

句読点の少ない文体の理由

先ほども言ったように『春琴抄』は極端に句読点が少ない文体を特徴としている。例えば14ページ(新潮文庫版)から抜き出してみる。

蓋し春琴は鵙屋のお嬢様であるからいかに厳格な師匠でも芸人の児を仕込むような烈しい待遇をする訳には行かない幾分か手心を加えたのであろうその間には又、千金の家に生まれながら不幸にして盲目となった可憐な少女を庇護する感情もあったろうけれ共何よりも師の検校は彼女の才を愛し、それに惚れ込んだのであった。

一読するだけではわかりにくく、一般的な作家であれば合間に句読点をいくつか挟むのではないだろうか。谷崎潤一郎の他の著作も同様というわけではないため、『春琴抄』がこうした文体なのは何かしらの理由があると考えるべきだろう。

自分は第一感として、盲人の世界を文章で表現するためと考えていた。全てが暗闇に塗りつぶされた世界では区切りなど存在せず、一が全であり全が一である。それを表現するための句読点の省略なのではないか、とそれらしいことを考えていた。ただ答えは谷崎潤一郎本人が既に語っており、その仮説が見当違いすぎて恥ずかしくなった。

谷崎潤一郎の『文章読本』という本のなかで句読点について論じている章があるのだが、そこで『春琴抄』について以下のように言っている(一部注釈やカギ括弧を追加)。

そこで私は、これら(※句読点のこと)を感覚的効果として取り扱い、読者が読み下すときに、調子の上から、そこで一と息入れてもらいたい場所に打つことにしておりますが、その息の入れ方の短い時に「、」や、やゝ長い時に「。」を使います。この使い方は実際にはセンテンスの構成と一致することが多いようでありますが、必ずしもそうとは限りません。私の「春琴抄」と云う小説の文章は、徹底的にこの方針を押し進めた一つの試みでありまして、例えばこんな風であります。

この後に『春琴抄』の文章が引用され、さらにこう続ける。

私の点の打ち方は、「一、センテンスの切れ目をぼかす目的」、「二、文章の息を長くする目的」、「三、薄墨ですらゝと書き流したような、淡い、弱々しい心持を出す目的」等を、主眼にしたのでありました。

ここからわかるのは谷崎潤一郎は『春琴抄』において流れる水のような文章を追求していたということだ。自分も当初はこの文体に面食らったが、慣れてくるとすらすらと読めるようになり、最終的には文章の流れに身を任せているような感覚が快感にもなっていた。ただこれは文章に徹底的に向き合ってきた谷崎潤一郎だから可能なのであり、凡人が模倣しても同じ効果は生み出せないだろう。

また「三、薄墨ですらゝと書き流したような、淡い、弱々しい心持を出す目的」という部分にも注目したい。これは語り手である「私」がぽつぽつと語る姿を表現したとも考えられるが、同時に春琴の心の弱さを表現したとも受け取れる。気性の荒い春琴ではあるが、最後には佐助の献身に打たれて弱さを吐露した。そもそも彼女は盲人なのであり、その生活の不安は尋常ではないはずだ。強い態度はその弱さを隠すためとも読み取れる。

マゾヒズムとか純愛といった陳腐な言葉では言い表せないぐらいに美を追求している小説。100ページにも満たない短めの小説なので古典文学を普段読まない人にもおすすめしたい。

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