湯豆腐には鱈と春菊──『センセイの鞄』

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『センセイの鞄』は芥川賞作家・川上弘美の小説である。この作品は2001年には谷崎潤一郎賞も受賞しており、その後、ドラマや漫画にもなった。さらには外国語訳されたことで国際的にも高い評価を受けているらしい。今でこそあまり話題にあがらないものの、その評価の高さでは日本の文学作品のなかでも稀な作品だと言えるだろう。

先生と生徒の恋愛

タイトルだけではこの小説のジャンルがわからない人が大半かもしれない。学校が舞台だったりするのかと思いきや、物語は居酒屋から始まる。主人公・大町ツキコは行きつけの居酒屋で高校時代のセンセイと再会。そこから互いに過度に干渉せず、ほどよい距離感を保ちつつ、ツキコとセンセイの酒を通じた交流は続いていく。

読み進めるなかで、この作品は1話完結方式で、ツキコとセンセイの間にある適度な温度感に親しんでいく作品だと思っていた。しかしツキコは高校時代の同級生・小島孝と再会し、その好意を真っ直ぐに受け止められなかったことから、センセイに対する想いを自覚していく。そこに至って初めて、この小説が恋愛小説であることに気付かされるのである。

正直なところ、このふたりの関係に恋愛は必要なのだろうかと疑問に感じないこともなかった。ただこの小説は先生と生徒という年の差の恋愛を淡々としつつも生き生きと描いており、それのみならず必然的に訪れる別れまで書き上げている。そこに至るまでの作者の筆致は見事という他ない。

心がつながる瞬間

この小説で特段印象に残っているのが「干潟──夢」という章である。章題どおり「夢」の話なのだが、それが比較的穏やかな日常を描いているこの小説において異彩を放っている。

最初はいつものようにセンセイと酒を酌み交わしていたかと思いきや、気がつけば舞台は水平線が見える干潟へと変わっている。またセンセイは「ここに、ときどき、来てしまうんですが、人と一緒に来たのは初めてです」と語るなど、まるでここがセンセイの夢や精神世界かのようなニュアンスも示唆されていたりする。実際、ツキコ視点の夢かと思いきや、途中からツキコはセンセイが話していないはずの奥さんの名前を知るに至っているなど、まるで思考を共有しているかのような描写もある。

この突如挿入された不思議な章が何を意味しているのかはわからない。ただ個人的には、ツキコとセンセイの想いが繋がった場面なのだと思っている。ここに至るまで、ツキコの想いは明かされても、センセイ側の心情は読者からすれば不明瞭である。ただこのセンセイにとって個人的な空間にツキコが招かれたというのは、センセイがツキコの恋慕に応える覚悟が生まれたということなのではないだろうか。

まあ勝手に深読みすればそのように解釈することもできるが、別に深い意味がなくてもいいようにも思っている。この章はふたりの関係が変わろうとするまさにその最中に挟まれており、いわば緩衝材のような役割を果たしているようにも見える。理由はなくともそこにあるだけで、その前後が際立つ。ただ少なくとも自分は単純にこの章が好きだし、作品に奥行きを出していると感じている。

人物や情景描写の緻密さ、そして豊かな言葉選びなど、恋愛小説という枠にとらわれない重みのある小説だ。個人的にはお酒好きということもあり、居酒屋での酒の肴の渋いチョイスが特に印象に残っている。

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