自分は「辞書」という存在が大好きという酔狂な人間ではないまでも、どちらかと言えば好きなほうの人間であると思う。部屋には国語辞典や英和辞典はもちろん、語彙に困ったときの類語辞典、漢詩を書きたいと思ったときに購入した漢字辞典、なぜ買ったのかわからない古語辞典などが備えてある。まえがきなどに編纂者たちの想いなどが書かれていたりして、意外に読み物としても面白いのである。
『舟を編む』はそんな辞書の世界に没頭する人間を描いた作品である。
辞書をとりまく群像劇
本書を奥深くしているのは、間違いなく各章で視点を変える群像劇風の構成にしているからである。
第1章を見ると、辞書編集部の荒木が主人公に思える。出版社における辞書作りの酸いも甘いも知るベテランが主人公かと思いきや、第2章では彼が他部署からヘッドハンティングした馬締光也の視点で物語が描かれ、さらに次の章ではチャラ男・西岡に視点が移り変わっていく。
これが実に巧妙で、荒木の期待を背負って異動した馬締は、客観的に見れば得体の知れない存在として当初は描かれている。しかしひとたび彼の視点になると、実際には辞書作りの深淵に日々苦心するなど、彼の人間味のある姿が描かれていくことになる。また馬締の視点からは軽薄に見えた西岡は、彼が主人公となる章に至ってからはこの仕事に情熱を注いていたことがわかる。そして西岡の視点からは、あれだけ苦心していた馬締が、実は辞書作りにおいては圧倒的な才能を持つ天才であることが判明してくるのである。
このように前章における主観が伏線となり、次章における客観で各キャラクターの実像がわかっていく構成がある種のカタルシスを生み出していると言える。またこの構成には“辞書はひとりにしてならず”というようなメッセージ性もあるように思えてならない。あらゆる性質の人間が複雑に絡み合って生まれる辞書というもののリアルを描きつつも、それを視点を変えて描くこと小説としての面白さに昇華している発想は見事というほかない。
「言葉はときとして無力」
本書は全体的に辞書編纂に関わる社会人たちを描きつつも、作者の筆致によりときにコミカルに描かれており、それが多くのメディア展開に至っている理由だろう。しかし自分はこの小説を読んで、その最後に涙を流さずにはいられなかった。
この小説の冒頭から登場していた松本先生が亡くなってしまったのは、無念に感じる読者も多かったことだろう。本書のなかでも各々がそれを悲しみ、馬締は「言葉はときとして無力」として先生の命を言葉の力で繋ぎ止められなかったことに無念を感じていた。
しかし、馬締は「言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちの心のなかに残った」と続ける。先生が生きてきた証を残すには、絶対に「言葉」というものが必要だからだ。そして松本先生が長年関わってきた辞書そのものも、彼が生きた証と言っていいだろう。
『大渡海』は作中で作られた辞書の名前だが、辞書とはまさに言葉という大海を渡る舟である。そしてその舟は作られたから終わりではない。物語は最後に、荒木が馬締に対して、明日からの『大渡海』の改定作業に追われることを示唆して幕を閉じる。彼らは今後も言葉の海に苦心しながら、同時に笑ってもいるのだろう。
「言葉」というものに畏敬の念を抱いている自分にとって、本書の辞書作りにおけるリアリティのある描写、そしてたどる結末には胸にあふれるものがあった。その深淵のリアルさにより、読んだ人に「自分も辞書を作りたい!」と思わせるような作品ではないかもしれない。しかし言葉にまつわるすべての物事──例えば読書や会話、ブログもそうかもしれない──に対する見え方が変化するような作品に思う。



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