FFT エンディングの考察とか感想とか

昨日、FFT(ファイナルファンタジータクティクス)をクリアしました。かなり印象的な終わり方でして自分を虚無感に襲わせるには十分な破壊力でした。

考察に関しては「ファイナルファンタジー用語辞典 Wiki*」と脚本担当の松野泰己氏のツイートが非常に参考になった。それを踏まえた上で色々と振り返ってみたいと思う。

この物語のメインテーマとは

クリアした後にこの物語の中心テーマについて思いを巡らしていたが、それは「」という結論に至った。主に上記の松野氏のツイートの受け売りであるが、自分でプレイした上でもそう感じる。

物語の中心人物である主人公とディリータの境遇は対比されているようで実はかなり似通っている。主人公は早くに父を亡くしているし、母親は正妻でなく妾だったという事しかわからない。兄が二人いるがそれも腹違いであり、関係は良好だったとは言えないだろう。そんな中で血の繋がりのある妹・アルマだけは主人公にとって唯一の家族であり、全てを賭してでも守りたい存在だったと言える。

ディリータも両親を早くに黒死病で失っている。そんな彼にとって妹のティータはかけがえの無い存在だった。この点で主人公もディリータも「唯一の心の支えが妹だった」ということに共通点を見出すことができる。二人にとって妹は自分の愛を投げかけ、そして同時に愛を受け取ることのできるたったひとつの存在だったわけである。

しかし御存知の通り、ディリータはジークデン砦の攻防において妹をも失ってしまう。ここで似通っていた二人の道は決定的に分かつことになってしまう。ディリータが歪んだ野心を持ち、凶行に及ぶことになったのはティータの死が決定的な契機になったのは明らかだろう。

最終章のタイトルにもなっていた「Somebody to Love」は、松野氏曰く同名のQueenの楽曲が元ネタになっているらしい。この曲の冒頭には「Can anybody find me somebody to love?(誰か僕に愛すべき誰かを見つけてくれるのかい?)」という歌詞があるが、これはディリータの心情を痛烈に表していると思われる。ディリータは一連の行動の中でも、やはり愛すべき誰かを常に求めていた。「虐げられた平民のため」とか「世の中を変えるため」とか行動の理由を語ってはいるが、実際は愛すべき存在を失ってしまった絶望を紛らわす意味合いが強かったのだろう。

参考:歌詞和訳 | Somebody to Love – Queen 

しかしそんなディリータの絶望も、希望に変わるチャンスがあった。それこそがオヴェリアの存在である。ディリータの言葉や行動を見ても、オヴェリアを本当に愛していたのは間違いない。そのまま行けばティータに変わる愛情の対象がオヴェリアとなり、ディリータの行動すべてに何らかの変化が生まれるはずだった。しかしそんな折にEDのシーンとなるわけである。今やディリータにとって最愛の存在となっていたオヴェリアだが、当の本人にはその愛は全く届いておらず、彼女はただ自分がディリータに利用されている存在としか思えていなかった。ディリータにとって愛していたオヴェリアが自分を刺し殺そうと企んでいた事実は、同時に最愛の人物を失うことだった。それは妹を失うほどの絶望を再び彼に与えることになっただろう。それは彼がオヴェリアを殺してしまう理由としては十分なものだったように思う。「ディリータがなぜオヴェリアを殺したのか?」というのは議論の対象になりやすいらしいが、自分としてはあれだけの絶望を2度も味わったディリータであれば、裏切られた対象を勢いで殺してしまうのはむしろ当たり前とさえ思える。それほどに彼は究極的な不遇に追い詰められたのである。

このように歴史的には英雄だったものの実は救いのない境遇だったディリータだが、それに反して主人公には愛すべき妹が残っていた。主人公の境遇も普通に考えれば悲惨だ。異端者の烙印を押され、出会う人にはそのためにことごとく殺されそうになる(だからこそアグリアスやオーランのような主人公側のキャラが際立つのであるが)。しかしたったひとつの希望として血を分けた妹がいたから、そのような境遇にも耐えられたのだろう。やはり妹の存在こそが主人公とディリータの決定的な差となったわけである。

「信念を持って行動した」という点では終始ふたりとも共通している。ただ愛する対象を持つか否かでここまで結末が変わってしまったわけである。FFTがこの二人を対比させたのは、ひとえに愛というものが持つ力を示したかったのではないだろうか。思えばFFは「愛」を全面に出すことが多い。「愛のテーマ」なんて名曲もあるし、各シリーズのEDを見ても「愛あればこそ」と片付けることができるものは多い。こうまで繰り返し「愛」という言葉を使うとこっ恥ずかしいが、それ以外に適切な言葉も無いので仕方がない。逆に考えれば愛というものはそれだけ唯一無二の概念なのである。

「全てを手にしたけど愛する人がいなかったディリータ」と「全てを失ったけど愛する人はいた主人公」というのは、このゲームを見ていく上で非常にわかりやすい視点となると思う。「どちらが幸せなのか?」というのは自分にはわからない。感覚的には当然主人公の側に立ちたくなるが、だからと言って一応は栄光を手にしたディリータを不幸と言い切るのもためらわれる。それを自分なりに考えることこそが、このゲームの深みに触れる上で大切となるのだと思う。FFTのストーリーは難解と言われるらしいが、上記の視点だけでも理解しておけばかなり面白く、そしてわかりやすくなる。

FFTには考察に値する箇所が多く存在すると思うが、ここでは考えさせられるEDと主人公とディリータの比較を焦点とした。ここまでで2345文字。自分にこれだけの長文を書かせるということが、このゲームの面白さをそのまま表しているように思える。

取り急ぎで考察をまとめてみたが、あまり結論を急がないでゆっくりと噛み締めつつ考えを巡らしたいようにも思う。スルメのように噛みしめたいゲームである。まだサブイベントなども残っているので、機会があればやってみようかな。

 

20


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)